会場のこと
- Kai Syoujikimonono
- 2023年4月4日
- 読了時間: 2分
京都産業大学には演劇部が講演をするのにちょうど良いサイズのホールがありませんでした。ので、学外のスペースを借りて公演をしていました。一つ前の記事で伴戸さんが書いていらっしゃいましたが、京大西部講堂やKSKホールなど。僕が一番最初に見た劇団ACTの公演、つまり僕が大学一回生の時の春公演はKSKホールでした。その公演の直後にKSKホールは閉館されたと記憶しています。それ以降僕の在学中は左京区のスタジオヴァリエがメインでした。あと当時の無門館(そののちアトリエ劇研と名前を変え、今は閉館してしまいました)そして僕の3回生の秋公演では京大西部講堂を再び使わせてもらうことになりました。この公演に際して「西部講堂連絡協議会」に再加盟せねばならなかったので、伴戸さんの代と僕らの代の間で一回、抜けてるんですね。協議会の人らからしたら「おぅ、またきたんかい…」ってことだったんでしょう、今思うと。
学内に小ホールがないのは立命や同志社など、小ホールがある他大学の学生劇団と比べると随分なハンデではあったのです。でも、そのおかげで、仕込みバラしの段取りなどは他大学の劇団さんよりも優秀でした。鍛えられて。
他の学生劇団さん、そのあたりの年代の人たちの座組に客演で呼ばれたりすると、「なんてゆったり、のんきに仕込むことだろうか…」「そしてなんて計画性がないんだろうかこの人たちは」と驚いた覚えがあります。
そんなことでイチイチいらいらしては怒鳴るもんだから「田中ってやつは気がおかしいぞ」という噂が界隈に広まったのも無理ないことです。
「他の人に仕事を振って、教えてやってもらう」よりも「自分でやった方が簡単だから」と全部仕事を囲い込んで、しんどくなってイライラして当たり散らしてるんですからもう手の付けようがありません。上記の西部講堂での公演では「ラストシーンで落下してきた人工衛星が舞台に突っ込んでくる」という途方もないことを実現したくて、かなりでかい美術を作ったは良いものの、その「人工衛星」が重すぎて車輪が動かず、人力で運ぼうとして、部員が化粧のアルミ板で手を切って何針か縫うという事故も起こしてしまいました…。大崎さん、本当にごめんなさい。
それ以来、自分で舞台監督を兼任するというバカなことはやめました。あの時、逆に「俺、作演出やめて舞台監督だけやろう」と思っていたら、そこそこ有能なスタッフに慣れていたような気もするのですが、後の祭りですね。
動画はその時の様子です。
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